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「軍人勅諭」・「國體の本義」・戦争
(そして安倍政権・日本会議)<平和のための戦争展展示>

今年(2016年)も「平和のための戦争展」に展示参加しました。

昨年、「戦争法」が成立し、「平和憲法」を持ちながら、海外で「血を流す」ことの可能な安倍政権のいう「普通の国」になる可能性が大きくなりました。また、安倍政権が「美しい国」と懐かしむ時代の日本を目指して進める「教育再生」も道徳の教科化、道徳教科書の導入まで来ています。合わせて、「政治的中立」の名のもと、教師への圧力、教育内容への干渉も、日々、激しいものになってきています。そんな現状の中、安倍信三氏・日本会議が妄想する「美しい国」の事実に少しでも迫るべく、調査して発表しました。

日本の「国柄」「國體」は明治以降に創られた‼

軍人勅諭

『軍人勅諭』(ぐんじんちょくゆ)は、1882年(明治15年)1月4日に明治天皇が陸海軍の軍人に下賜した勅諭である。正式には『陸海軍軍人に賜はりたる敕諭』という。山縣有朋‎が西周に起草させ、福地源一郎・井上毅・山縣有朋‎によって加筆修正されたとされる。下賜当時、西南戦争・竹橋事件・自由民権運動などの社会情勢により、設立間もない軍部に動揺が広がっていたため、これを抑え、精神的支柱を確立する意図で起草されたものされ、1878年(明治11年)10月に陸軍卿山縣有朋‎が全陸軍将兵に印刷配布した軍人訓誡が元になっている。

武士の時代、絶対の忠誠の精神はあったが、それは藩主に向けたものであった。「武士の時代」は天皇の存在はそんなに大きくなかった。ましてや、農民出身の一兵卒にあっては、さらに、それは薄い。

天皇を中心に置き「忠義」をもって絶対服従をもって統率するには工夫がいる。

軍隊の兵卒には封建時代のような従属関係はない。天皇を兵卒の忠義信仰の対象とするなら、この関係を直接的な結びつきにしなければならない。そこにおいて初めて中間の「政府」が消失して「天皇」に対する「恩」の観念が生まれるのである。」(象徴の設計より)

「諄々と説く理論的な説得よりも読む者の感情に直接迫る遡及力」を求めた有朋は西の草稿を福地源一郎に託し、「万世一系」の天皇の歴史を述べた後、「朕は汝等軍人の大元帥なるそ...」となる前文をもつ強い命令口調の勅諭ができあがる。

そして、これがその後の歴史観、「国柄」といったものに引き継がれている。

 

※竹橋事件

竹橋事件(たけばしじけん)は、1878年(明治11年)8月23日に、竹橋付近に駐屯していた大日本帝国陸軍の近衛兵部隊が起こした武装反乱事件である。竹橋騒動、竹橋の暴動ともいわれる。動機は、西南戦争における財政の削減、行賞についての不平であった。大隈邸が攻撃目標とされたのは、彼が行賞削減を企図したと言われていたためである。加えて兵役制度による壮兵制時代の兵卒への退職金の廃止、家督相続者の徴兵の免除なども不満として挙げられていた。

軍隊以外でも進められた中央集権化と天皇の神格化

さらに、内務大臣となった有朋は「自由民権運動撲滅」をめざし「保安条例」を発布・施行したり、国会に先んじて、地方自治制度を国家の直接統治機関におく等、軍隊の外でも、弾圧をいとわず、国家統制と中央集権化を図っていく。

 

有朋以上に、人民の反抗をおそれる岩倉具視は「祭政一致」の宣伝をすすめ、人民に影の薄かった天皇を「現人神」仕上げていった。まず、反乱の多かった東北地方から「巡幸」をスタートさせ、実際に見せることでより以上の尊厳を天皇に与えた。また、皇室財産を莫大なものにして、その権力を大きく見せるように計画もした。例えば、山林を皇室財産に編入する際も「朝敵」であった旧藩主の地主から取り上げ、懲罰的な意味を一般人民にみせるようにしてその権威を一層引き立てるようにした。ついに、皇室財産は三井・三菱を合わせても優にこれを上回るものとなった。

 

軍人勅諭の前文にある「歴史観」が以後の日本の支配層の国家統制のための思想の支柱となり、その「精神」が大日本国憲法、「教育勅語」につながり、国民(支配層は臣民とした。)に対する弾圧と統制の暗黒時代に入る。そして、その思想は昭和に入って「国体の本義」としてまとめられる。

 

大日本帝国憲法1889年(明治22年)2月11日に公布、1890年(明治23年)11月29日に施行

 

伊藤は、ベルリン大学のルドルフ・フォン・グナイスト、ウィーン大学のロレンツ・フォン・シュタインの両学者から、「憲法はその国の歴史・伝統・文化に立脚したものでなければならないから、いやしくも一国の憲法を制定しようというからには、まず、その国の歴史を勉強せよ」というアドバイスをうけた。その結果、プロイセン (ドイツ)の憲法体制が最も日本に適すると信ずるに至った

 

教育ニ関スル勅語(教育勅語)1890年(明治23年)10月30日に発布

 

 山縣内閣のもとで起草され、明治天皇が山縣有朋内閣総理大臣と芳川顕正文部大臣に対して与えた勅語の形をとった。まず皇祖皇宗、つまり皇室の祖先が、日本の国家と日本国民の道徳を確立したと語り起こし、忠孝な民が団結してその道徳を実行してきたことが「国体の精華」であり、教育の起源なのであると規定する。続いて、父母への孝行や夫婦の調和、兄弟愛などの友愛、学問の大切さ、遵法精神、一朝事ある時には進んで国と天皇家を守るべきことなど、守るべき12の徳目(道徳)が列挙され、これを行うのが天皇の忠臣であり、国民の先祖の伝統であると述べる。これらの徳目を歴代天皇の遺した教えと位置づけ、国民とともに天皇自らこれを銘記して、ともに守りたいと誓って締めくくる。(資料をご覧ください。)

國體の本義

『国体の本義』(こくたいのほんぎ)とは、1937年(昭和12年)に、「日本とはどのような国か」を明らかにしようとするために、当時の文部省が学者たちを結集して編纂した書物である。神勅や万世一系が冒頭で強調されており、国体明徴運動の理論的な意味づけとなった。
 
この國體の本義に基づき、教科書も扇動的なものになっていく。
第5期の国定歴史教科書になると、上・下巻ともに巻頭に、天孫降臨の「神勅」を掲げるよ
うになった。従来の教科書に全くなかった「神勅」は、皇室中心、国体観念の明徴、拳国一致、
皇運扶翼、敬神崇祖などの考えを強く打ち出すなかで登場してきた。敬神崇祖の教育を強める
ために、皇室と神宮や神社の関係を明らかにする教材が付け加えられた。また、日本文化の独
自性=日本精神の優秀性の考えは、古代から一貫して存在し、朝鮮・中国からの移入・模倣な
どでなく、自立的であったことを強調している。さらに、外交史関係の教材で、排外主義的ナ
ショナリズムを露骨に押し出している。

国家神道、 靖国神社

神社神道
神社施設を信仰拠点として、その神社(地域)を支える氏子(うじこ)・崇敬者などが信仰組織を形成して祭祀儀礼を行っている一般的な神道の形態。
皇室神道
皇居内にある宮中三殿を信仰拠点として、皇室の繁栄・存続と人々の安寧、五穀豊穣などを祈願している神道の形態。
教派神道
(神道十三派)
教祖・開祖の宗教的な神秘体験や教義的な世界観にもとづく宗教としての神道。
古神道
山や川、森、岩、気象(自然災害)など自然界の森羅万象に霊性・神格を認める日本で古代から信仰され続けてきた民間神道の形態。原始神道・縄文神道と呼ばれることもある。
国家神道
王政復古(尊王思想)を掲げた明治維新から第二次世界大戦の終結まで信仰された国家権力がその祭祀や教義、神社間の序列を制定した神道。
新思想系の神道
大本・生長の家・白光真宏会・世界真光文明教団・崇教真光・ス光光波世界神団・神道天行居などの比較的歴史が浅く、特定の教祖や教義に基づいて布教されている神道の形態。
「国家神道」を広げる立場にあったと思われる神祇院(戦前の日本の国家機関のひとつ。内務省の外局)であるが、さしたる成果をあげられず、戦後、神道指令によって解散させられた。とあるので、「国家神道」が何ものであるかはよく理解できなかった。
前記してあるように、ナショナリズムを煽って国民を戦争に引きずり込んでいったのは、儒教的精神からくる道徳と教育によるといえるかもしれない。
しかし、神祇院は後で示す通り、神社本庁となって、戦後の右翼的潮流の中心になっていく。

靖国神社

戊辰戦争終戦後、東征大総督有栖川宮熾仁親王が戦没した官軍(朝廷方)将校の招魂祭を江戸城西丸広間において斎行したり、太政官布告で京都東山に戦死者を祀ることが命ぜられたり、幕末維新期の戦没者を慰霊、顕彰する動きが活発になり、その為の施設である招魂社創立の動きも各地で起きた。それらを背景に大村益次郎が東京に招魂社を創建することを献策すると、明治天皇の勅許を受けて招魂社創建が決定され、戊辰の戦没者3,588柱を合祀鎮祭、「東京招魂社」として創建された。
東京招魂社は軍が管轄するものとされ、一般の神社とは異なる存在で種々の不安定要素があった為に、正規な神社へ改めようとする軍当局は社名の変更と別格官幣社への列格を要請し、明治天皇の裁可を得て1879年(明治12年)6月4日に「靖國神社」への改称と別格官幣社列格の太政官達が発せられた。
正規な神社となった後も神社行政を総括した内務省が職員の人事権を有し、同省と陸軍省および海軍省によって共同管理され、神社としては特殊な存在ではあった。
また新たに神霊を合祀するに際しても勅使を差遣した他、天皇・皇后の行幸啓を始めとする皇族の親拝や代参も頻繁になされる等、皇室および国家から臣下を祀る神社としては異例の殊遇を受け1932年(昭和7年)、上智大生靖国神社参拝拒否事件が起きる。
こうした軍と国家と皇室の結びつきの強さが戦後生き残った右翼的潮流の「拠り所」となっている一因だと思われる。

戦後につながる「右翼的潮流」


神道指令

神道指令(しんとうしれい)とは、1945年(昭和20年)12月15日に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が政府に対して発した覚書「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」(SCAPIN-448)の通称である。

信教の自由の確立と軍国主義の排除、国家神道を廃止、神祇院を解体し政教分離を果たすために出されたものである。 当初は政教完全分離を目指し、神道行事を一切排除する内容となっていたが、後述するように、大幅に緩和され、神道系右翼団体の再結成を誘導することになる。

「大東亜戦争」や「八紘一宇」の語の使用禁止や、国家神道、軍国主義、過激なる国家主義を連想するとされる用語の使用もこれによって禁止された。

<一部抜粋>(現代語訳)

(イ)本指令の目的は宗教を国家から分離することにある。また、宗教を政治的目的に誤用することを妨止し、正確に同じ機会と保護を与えられる権利を有するあらゆる宗教、信仰、信条を正確に同じ法的根拠の上に立たせるためにある、本指令は神道だけに対してではなく、あらゆる宗教、信仰、宗派、信条あるいは哲学の信奉者に対しても、政府と特殊な関係を持つことを禁じ、また、軍国主義的あるいは過激な国家主義的イデオロギーの宣伝、弘布を禁じるものである。

(ロ)本指令の各条項は同じ効力をもって神道に関連するあらゆる祭式、慣例、儀式、礼式、信仰、教え、神話、伝説、哲学、神社、物的象徴に適用されるものである。

(ハ)本指令の中で用いる国家神道という用語は、日本政府の法令によって宗派神道あるいは教派神道と区別された神道の一派、すなわち国家神道あるいは神社神道として一般に知られている非宗教的な国家的祭祀として類別されている神道の一派(国家神道あるいは神社神道)を指すものである。

(ニ)宗派神道あるいは教派神道という用語は、一般民間においても、法律上の解釈によっても、また、日本政府の法令によっても宗教として認められて来た(十三の公認宗派より構成される)神道の一派を指すものである。

(ホ)連合国軍最高司令官によって1945年10月4日に発せられた基本的指令、すなわち「政治的、社会的ならびに宗教的自由束縛の解放」によって、日本国民は完全な宗教的自由を保証されたのであるが、右指令第一条の条項に従って

(1)宗派神道は他の宗教と同様な保護を享受するものである

(2)神社神道は国家から分離され、その軍国主義的あるいは過激な国家主義的要素を剥奪された後は、もしその信奉者が望む場合には、一宗教として認められるであろう。加えて、それが事実日本人個人の宗教なり、哲学なりである限りにおいて、他の宗教同様の保護が許容されるであろう。

(ヘ)本指令中に用いられている軍国主義的ならびに過激な国家主義的イデオロギーという表現は、日本の支配を以下に掲げる理由のもとに他国民ならびに他民族に及ぼそうとする日本人の使命を擁護し、あるいは正当化する教え、信仰、理論を包含するものである。

(1)日本の天皇はその家系、血統、あるいは特殊な起源であるゆえに他国の元首より優れているとする主義
(2)日本の国民はその家系、血統、あるいは特殊な起源であるゆえに他国民より優れているとする主義
(3)日本の諸島が神に起源を発するがゆえに、あるいは特殊な起源を有するがゆえに他国より優れているとする主義
(4)その他、日本国民を欺き、侵略戦争へ駆り出させ、あるいは他国民の論争の解決の手段として武力行使を謳歌させるに至らせたような主義

三 日本帝国政府は1946年3月15日までに本司令部に対して本指令の各条項に従って取られた諸措置を詳細に記述した総括的報告を提出しなければならない

四 日本の政府、県庁、市町村のすべての官公吏、属官、雇員ならびに、あらゆる教師、教育関係職員、国民、日本国内在住者は、本指令各条項の文言並に、その精神を遵守することに対してそれぞれ個人的な責任を負わなければならない。

神道指令は1949年頃運用が大幅に緩和され神道系右翼団体の再結成が政策的に誘導された


日米安保と結びついた右翼団体

表向きには皇室財産の大半が国有財産化された。だが、神祇院の資産勘定が神社本庁に移管されたことで、国家神道に由来する資本の一部と内務省に由来する神社組織が姿を変えて残ることになった。

当初、神道指令は完全な政教分離を目指していた。だが、1949年(昭和24年)を境に適用条件が大幅に緩和されていく。このころ、中国で国共内戦が共産党優位となり、朝鮮半島では38度線をはさんでにらむ合う状況が生まれていた。米国は、対日政策を転換し、いわゆる逆コースが始まった。

GHQと吉田茂自由党内閣は、日本の再軍備を計画するとともに、左派の弱体化と右派の強化を政策的に誘導した。右翼団体が新たに再結成していくともに、神道はその象徴として、政治・経済的背景として、影響力を強めていった。

1957年に岸信介権が成立すると、政府は1960年の日米安保条約更新に向けて、国内の強い反発に直面した。国内労働組合への圧力は強いものとなった。政府は、右翼団体を超法規的な実動部隊として利用して対抗した。

60年安保の強硬通過の局面では、政府自民党は、右翼団体・暴力団と積極的に結びつき、デモ隊と対峙した。このとき生まれた黒塗りの街宣車にスピーカーといういわゆる街宣右翼は、現在でも温存されている。

戦後、政治の中枢にあった人たちも戦前の政権に属する人の生き残りであった。

 


政治的権威となった神社本庁

神社本庁は、冷戦構造の中で日本に対米従属構造が作られる過程で、反共保守勢力の支持母体として強化されることになった。戦後体制に強い影響力を持つようになった神道系団体は、冷戦の終結が近づくと一時下火となっていたが、図に示されたように、生長の家等との分離、合流をへて、日本会議となり2011年の東日本大震災以降のナショナリズムの高揚を背景に、内閣や国会に強い影響力を及ぼしはじめることになる。

ただ、「日本国憲法」はこうした勢力の戦前への回帰を防ぐ内容をしっかり含んでいる。それゆえ、「改憲勢力」の激しい、敵視の的になっていると思われる。(自民党草案・現憲法比較表参照)

「神社本庁」から日本会議に至る右翼的潮流を図にしてみました。

<感想>

現代日本の社会にあって、天皇への忠誠というのはなかなか成り立ちにくいと思うが、天皇の位置づけがなくとも「国家」への「忠誠」で日本社会は縛られていく可能性を感じて心配になった。

 

 

参考資料: 「象徴の設計」松本清張 「日本会議・戦前回帰の情念」山崎雅弘

ユキノシバリもっと複雑な民主主義の歴史(ブログ) 國體の本義・軍人勅諭・その他復刻版

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